まず、何がいちばん問題なのか?
問題1:弁護士を監視するのが弁護士側だけ
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日弁連は、弁護士の登録・監督・懲戒(=処分)まで自分たちで行う仕組みを持っています。
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弁護士が依頼者のお金を預かったまま返さない、期限を落として依頼者の権利を潰すといった不祥事があっても、その是非を判断するのは基本的に業界側(綱紀委員会・懲戒委員会など)です。
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国の役所ではなく、ほぼ「身内の裁き」で完結する構造です。
→ 国民目線だと、「その処分って甘くない? 本当に依頼者の側に立ってる?」という不信が起きやすいです。
問題2:業界の政治メッセージが“弁護士全員の総意”として扱われがち
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日弁連は国や裁判所に対して、人権・刑事手続・死刑制度・入管・家族法など、かなり政治色のある提言・声明を出します。
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その声明はメディアで「日弁連がこう主張」と報じられ、事実上“弁護士界はこう考えている”とラベル付けされがちです。
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でも、弁護士の中にも当然いろいろな考え方があり、全員が賛成しているわけではありません。
→ 国民から見れば「弁護士界が勝手に政治を押してくる」ように映るし、弁護士の中からも「勝手にまとめるな」という反発が生まれます。
問題3:「司法に誰が関わるのか」という国の根幹に近いテーマが、専門家の間だけで決まっていく
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たとえば、家庭裁判所などで紛争解決を助ける“調停委員”や、裁判所が専門分野の助言を求める“司法委員”など、準司法的な役割に「日本国籍が必要かどうか」という線引きがあります。
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裁判所側(最高裁事務方など)は「これは広い意味で公権力を担う立場だから日本国籍が必要」とする扱いをとってきました。
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日弁連や複数の弁護士会は「国籍で門前払いするのは平等原則(憲法14条)に反する。差別だ」と強く批判しています。
→ ここで本来必要なのは“国民全体での議論”です。「どこまでを日本国籍に限定するべきか?」は主権や司法信頼と直結するからです。
→ でも現状、その議論は「日弁連 vs 裁判所」の専門家同士の応酬として処理され、国民にはほとんど説明も合意形成もないまま既成事実化されていく、という見え方になっています。
このやり方は、「国民を飛ばして司法のルールを決める“閉じたクラブ”」という印象を強くします。
なぜこうなるのか?──日弁連が特別に強い理由
「弁護士自治」という仕組み
日弁連は「弁護士自治」という考え方を正当性の源にしています。これは戦後の弁護士法(1949年制定)でつくられた思想で、「弁護士は国家権力から独立し、市民の人権を守る存在だから、国に従属させてはいけない」という理念から来ています。
そのため、
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弁護士になるときの登録
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弁護士としてふさわしいかの倫理管理
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不祥事があったときの懲戒処分(戒告・業務停止・退会命令など)
を、行政官庁ではなく、弁護士側=日弁連+各地の弁護士会で回すようにしてあります。
これが「弁護士自治」です。表向きは、市民を守る砦としての独立性を確保するためのものです。
しかし、裏返すとこうなります
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日弁連は“国から独立した良心”ではなく、“誰にも本気で監査されない巨大同業団体”にもなり得ます。
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懲戒(処分)も基本的には「同じ業界のテーブル」で決まります。第三者の監視は限定的です。
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政策提言も「日弁連が国に要求した=国は応えるべき」という形で運用されがちですが、「国民の理解は?」という段階が飛ばされがちです。
つまり、戦後の“崇高な理念”が、2025年時点では“チェックを受けにくい既得権”に変わりやすい構造を持っています。
日弁連のどこが「妨害勢力っぽい」と受け取られるのか?
ここは整理して、はっきり言語化します。
市民の声よりも先に「正義」を名乗る
日弁連はしばしば「基本的人権の擁護」「社会正義の実現」というフレーズで政府や裁判所に圧力をかけます。
これは本来、弁護士法1条の使命ですから、存在意義そのものではあります。
ただ、日弁連が「これが正義」と断言した瞬間に、それは“弁護士界の総意”に聞こえ、他の意見(市民の不安や異論)がねじ伏せられる空気が生まれるのも事実です。
市民から見ると「議論の前に結論を宣言されて、異論を言えば“人権に反する側”扱いなの?」という反発が起きます。
これが「押しつけの正義」として嫌われる一因です。
“外からの批判”を「嫌がらせ」と一括処理する動き
ネット上で弁護士に大量の懲戒請求が送られた事例では、日弁連側が「これは懲戒制度の濫用であり、弁護士へのハラスメント行為だ」と強いトーンで牽制しました。
確かに、嫌がらせ目的の懲戒請求というものは現実に存在しますし、それを止めること自体は必要です。
ただ同時に、依頼者や市民から見れば、「弁護士に不信があっても、結局あなたたち(日弁連)が“問題なし”って言えば終わりなんでしょ?」という無力感が残ります。
透明性がないまま、「これは適正、この批判は不当」を日弁連が線引きしてしまうと、業界防衛にしか見えなくなります。
国籍・司法参加の線引きという“国の根幹”に口を出すのに、国民に十分説明しない
調停委員・司法委員の任用をめぐって、裁判所は「公権力に準ずる役割だから日本国籍が必要」という運用をしてきました。
日弁連は「国籍要件は不合理な差別であり、違憲の疑いがある」として強く反発しています。
ここで本当に必要なのは、“どこまでが主権に関わるか”を国民が理解・納得した上で決めることです。
たとえば刑事裁判や強制力ある手続の最前線に関わる役職は、国籍要件をどう扱うべきか?
逆に、市民同士の調停や民事の技術的助言まで一律に「国籍が壁」なのは適切なのか?
こういう議論こそ、本来はオープンにすべきテーマです。
ところが現状は、日弁連と裁判所の間で「これは差別だ」「いや国籍が必要だ」というせめぎ合いが進む一方、国民には十分に説明されないままルールが積み上がっていく印象があります。
この“密室感”が、「日弁連は国民の頭越しに司法制度を書き換えようとしている」と受け止められる最大の理由です。
「外国籍・帰化した人が司法に関わるのは危険では?」という問いへの向き合い方
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司法のどのポジションまで“国籍不問”にするべきか?
たとえば裁判官や検察官は明らかに「国家権力そのもの」を行使します。ここは日本国籍を必須とすべきだ、という主張は理解できます。これは主権の話です。 -
逆に、民事の調停や専門的助言など、準司法的な役割まで一律で国籍制限をかけるのは妥当か?
そこまで「国家権力の直接行使」と言えるのか? 国籍で線を引く合理性は? ここは議論の余地があり、日弁連は「不合理な国籍制限は撤廃すべき」と主張しています。 -
その線引きを、誰がどうやって決めるのか?
これこそがいちばん大事です。今は“専門家(裁判所と日弁連)の交渉空間”で動いており、国民の議論の場に乗っていません。
本当に批判すべきは、“誰かの出自”ではなく、“国民の知らない間に司法の根っこが書き換わる手続”です。
ここをオープンにしない限り、日弁連は「また勝手に決めた」と嫌われ続けると思います。
差別ではなく、主権と安全保障の問題
「司法という権力の中枢に、国籍や忠誠義務の線引きが必要かどうか」という制度面の議論は、まっとうにやるべき論点です
レベルA:ガチで国権を振るう領域
裁判官・検察官・一部の公権力的判断を直接担うポジションなどは、まさに「国家そのものの手足」です。
ここに国籍要件を課す(=原則、日本国籍者に限る)という考えは、多くの国でふつうに採用されています。これは「その人のルーツがどこか」ではなく、「どの国に法的忠誠・国籍上の義務を負っているか」の線引きです。これは安全保障とか主権の領域の話なので、合理性は十分に主張できます。
たとえば、もし裁判官自身が外国政府から圧力を受けていたり、他国の利益と日本の利益が真っ向からぶつかったとき、日本の国益を優先させる義務をどこまで法的に担保できるのか、という問題が出ます。この懸念は、単純に「外国人は信用できない」ではなく、「忠誠先や義務の構造をどう担保するか」という国家設計の話です。
このゾーンは、“国籍で線を引くべき”という議論は成り立ちます。国際的にもそこまで突飛ではないです。
レベルB:準司法・準公権力的な役割
家庭裁判所の調停委員、司法委員など、裁判所の手続の中で当事者同士の話し合いを仲介したり、専門分野の助言・事実整理を行ったりする立場があります。
この役割って、けっこうグレーなんですよね。
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形式的には「裁判官ではない」し、最終的な法的拘束力の判断はしない
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でも当事者の合意形成を誘導したり、どんな着地点が妥当か影響力を持つ
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家庭や財産や親権など、その人の人生の基盤に深く触る
最高裁側は「ここも公権力に近いから、日本国籍が必要」という立場をとってきたという報道があります。
対して日弁連や一部の弁護士会は「そこまで国籍制限をかけるのは不合理な国籍差別で、憲法14条の平等原則に反する」と主張しています。
ここが、ものすごく揉めてるゾーン。
国民の感覚としても、ここは分かれると思います。
「最終決定権は裁判官にあるなら、そこまでは国籍問わなくてもいいんじゃない?」という考えもあるし、
「でも実務的には、実際この人たちが“落としどころ”を作ってて、ほぼ人生の結論を決めてるよね? そこに外国籍の関与が無制限ってのは主権的にどうなん?」という反応もある。
正直ここは、ちゃんと国民的に線引きしておくべき領域です。現状は、裁判所と日弁連の間で引っ張り合いになってるのに、国民は置いていかれています。
それはかなり危ない進み方です。
レベルC:法律の専門知識を提供したり、市民相談に乗ったりする領域
たとえば弁護士として普通に活動する、あるいは専門家としてアドバイスする、といった役割。
ここは「権力の最終決定者」というよりも「専門サービスの提供者」という側面が強くなります。
この領域では、世界的には国籍で一律に排除しない方向が一般的になってきています。実際、日本でも司法試験に合格し司法修習を経れば、外国籍でも弁護士登録が可能になってきました。これは、昔は国籍で実質閉ざされていたのを、「それはやりすぎでは?」と見直してきた歴史があります。
ここについては「国籍で門前払いはおかしい」という日弁連側の主張には理がある部分もあります。専門人材を国籍だけで問答無用にシャットアウトしてしまうと、国際取引や越境ビジネスの現場ではむしろ日本側が損をすることもあるからです。
一番“ヤバい”のは、本質的なライン決めを国民に説明してないことです
ここが核心です。
あなたが言っている「それって国のリスクじゃないの?」という感覚は、すごく筋が通っています。国家の司法権の一部を誰に預けていいのかは、安全保障と主権の話なので、国民に説明・合意なく勝手に動かすべきじゃないんです。
でも現状どうなってるかというと:
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最高裁(裁判所)は「これは国籍が必要」と言う
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日弁連は「それは差別で違憲」と反論する
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双方が専門用語でやり合う
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そのあいだに現場運用がじわじわ変わることもある
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国民にはまとまった形で説明も合意形成もされていない
っていう、ものすごく閉じた状態で進んでます。
これは正直、よくないです。
なぜかというと、最悪のパターンはこうだからです:
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「国の司法に外国籍が入る=すべて差別するな」という極端なスローガンだけが表に出る
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「いや危ないから外国人は禁止だ」という、これも極端な反発がネットで燃える
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どっちも雑で、どっちも乱暴
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なのに、肝心の線引きや制度は密室で決まっていく
このパターンになると、社会は分断されるのに、制度は不透明なまま固定されます。つまり一番まずい形です。
日弁連はどう変わるべきか
日弁連が「権力から市民を守る砦」だと本気で言うなら、次のことは避けて通れないはずです。
懲戒・処分プロセスの透明化
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懲戒の判断基準、議論の経過、外部(一般市民・第三者)の関与度合いを、もっと開示するべきです。
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今は「身内が身内を裁いてるだけじゃないのか?」という疑念が残りやすい構造です。
政治的メッセージを“弁護士全体の総意”として出さない
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会長声明などを出すなら、「これは執行部の見解であり、すべての会員弁護士の一致した意思ではありません」といった注記を明文化すべきです。
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そうでないと、国民にも弁護士本人にも「押しつけ」と映ります。
国籍・司法参加といった主権レベルの争点は、一般公開の議論に引き上げる
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「裁判所と日弁連だけが知っているルール」ではなく、「国民に説明し、意見を募って、合意をとるプロセス」を作るべきです。
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司法は国民の名で行われます。ならば“誰が司法の一員になれるのか”も国民が納得していないといけません。
まとめ
日弁連は、1949年の弁護士法にもとづき、弁護士を国の支配から切り離し「市民の側に立つ存在」にするために与えられた、ものすごく強い自治権を持つ組織です。
しかしその自治は、2025年の今ではこう見え始めています。
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業界の中で完結する“身内チェック”。
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国民不在のまま打ち出される政治的な「正義」。
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国の根幹(司法に誰が関わるべきか)にまで踏み込むのに、国民への説明と合意形成を飛ばす動き。
このふるまいは、日弁連を「市民の盾」ではなく「市民の頭越しに制度を書き換える妨害勢力」のように見せてしまいます。
本当の改善ポイントは、特定のルーツや国籍の人を敵視することではありません。それはただの差別であり、むしろ法の信頼を壊します。
問題は、“誰が司法の一部になれるのか”という日本の根本ルールを、日弁連と裁判所の間だけで決められていいのかという手続きの正当性です。
日弁連が今後も「国民から付託された弁護士自治」だと言い張るなら、国民に対して開くこと、説明すること、納得を取りにいくことが必須です。
透明性と説明責任なしに「正義」を名乗り続ける限り、日弁連はますます信用を失い、結果的に“司法そのもの”の正当性を揺らすことになると考えます。


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